今日も16時から…。
しかもタシの都合で3時間しか描けなかった。なので、仏陀の周りの葉っぱを塗ってオシマイ。
これも10分で終りそうな内容だな・・・。タンカは時間がかかる。
今日もタシのところに行く前、いつもどおりナムギャル寺に行って来た。
そしていつもどおり、寺の周りを1周回って帰ってきたとき、一人の白人に声をかけられた。
彼は足が悪いのか、いや、すでに体全体が悪いのかそれともただ単に年なのか、プラスティック製の椅子に座っている。いや、座っているというより、体全体を椅子に預けているというべきか?
白いクルターのような服を上下着ていて、それはすでに汚れまくっている。白いひげを伸ばし放題にしていて、とにかくかなりいい年であることは間違いない。
そして、毎日、この一角に座っていることを知っていた。毎日来てる私が言うのだから間違いない(笑)
彼は蚊の鳴くような声で
「私を立たせてくれないか・・・」
と言っている。
最初は誰に言っているのかわからなかったが、英語で言っているからには、多分私になんだろうと、
「どうしましたか?」
と尋ねた。
「君は英語が話せるのか」
「ええ、ほんのちょっと・・・」
「私を立たせてくれないか」
「ええ、いいですよ」
「君はいま、寺の周りを回っているのか」
「ええ」
「じゃあ、回ってきなさい。5分待っているから・・・」
そう言われ、別に今でも構わなかったが、一周回ることにした。
戻ってくると、おじいさんは手招きしている。
「どうしましょう」
「正面に立ってくれ」
そう言われ、おじいさんの正面に立った。
「手を持ってくれ。そして、両足を、私の足の前に置いてくれ」
言われたとおりにした。
「両手を引き上げてくれ」
そういわれたが、どうしたら言いかよくわからない。かなり足が悪いようなので、転んだりしたらまずいと思って余計にうまくいかない。
「ジャパニーズか」
そう言われ、
「はい」
と答えた。その時、彼の胸ポケットに入っている写真が目に入った。
彼が、ダライ・ラマから祝福を受けている写真だった。
何度かのチャレンジ後、やっと立ち上がることができた。
「どこに行きたいんですか」
「いや、椅子の背を持ってくれ・・・」
そう言われ、椅子の背に手をやると、ドスッと再度おじいさんは座ってしまった。
「サンキュー」
「どういたしまして」
そう言ってその場を離れたが、多分あのおじいさんは座りごごちが悪く、座り直したかっただけなんだろう。
寺の周りをもう一周して戻ると、白人の青年が、おじいさんの横に座り、何やら話をしていた。しばらく見ていたが、ずいぶん長いこと、親身におじいさんの話に耳を貸していた。
それを見ていて、なんだか自分は冷たい人間のように思えてしまった。
毎日、観音菩薩にみんなの幸せを祈っていても、こういう所で本当に人の役には立たない。
結局、私はいつも言葉だけだなあと思った。
言葉なんていくらでの言える。そこに「実行」が伴わなければ、どんな言葉も奇声を発しているのとなんら変わらない。
例えば、マザー・テレサ。
彼女の行動は、ダライ・ラマ以上に、誰からも賞賛されるべき行動だと思う。その行動を知ると、心が動かずにはいられない。
でも、カルカッタにいても、マザーハウスに行きもしない。
もちろんボランティアをすることなんて考えると尻込みしてしまう。
今だって同じインドにいるのに、何もしない。
別にボランティアに参加したり、ホスピタリティを発揮するのが全てではないかも知れないけど、行動がなければ、全てはうそ臭い。
前々から思っていたことだけど、自分は徹底的にいつもうそ臭い。
その原因は、結局自己中心的だということか。
そんなネガティブ感いっぱいでナムギャル寺を後にした。
この旅で自分が変わるとはまったく思えない。
でも、私もいつか、勇気を持って行動出来る時が来るのかな?
たった5RPだけ持って、スラムに入っていったときのマザーテレサのように。
重いまんまの文章でスミマセン。
ダラムサラの野菜市場のおじさん